静岡県御殿場市にある深沢城。
16世紀に今川氏が馬伏川と抜川の合流地にある丘陵に築城しました。
1568年には武田氏が支配していましたが、北条氏康と氏政が大軍で攻め落とし、北条綱成が城主となります。
1570年に武田信玄が深沢城を包囲し金山衆を使い攻めました。翌年深沢城に開城を迫る矢文を放ち北条綱成は玉縄城に退きました。
武田氏の家臣である駒井右京之進が城主となりますが、1582年に武田氏が没落すると城を焼いて退去します。
1584年に徳川家康と豊臣秀吉が小牧、長久手の戦いの際に家康は深沢城に北条氏の抑えとして、三宅惣佐衛門を在城させました。
1590年に北条氏が滅亡すると深沢城は廃城となりました。
現在でも武田氏時代に改修された三日月堀や馬出しが残され、見どころとなっています。
深沢城・基本情報、アクセス
所在地:〒412‐0014 静岡県御殿場市大堰160
城 主:北条綱成、駒井昌直、三宅康貞
形 式:平城
文化財史跡:県指定史跡
日本100名城スタンプ:該当なし
深沢城・駐車場
深沢城に駐車場はありません。
しかし、深沢城の南西に石碑と説明板が設置されていて、説明板の横に車1台停められるスペースがあります。
あくまで駐車できるスペースなので、利用するかどうかは自己責任です。
深沢城・縄張り図
深沢城は西側に伏馬川と東側に抜川が流れており、本丸は両方の川の合流地点に置かれています。
自然地形を利用した堅固な城で、陸続きの南側に二の丸、三の丸があり各郭間は空堀で隔てられています。
三の丸には武田氏の支配下であった時に築かれたと思われる、馬出しや三日月堀が築かれ防備を固めています。
深沢城・三の丸
石碑と説明板
三の丸には深沢城の石碑と説明板が設置されています。
説明板には縄張り図が掲載されているので、城跡を見学する前に要チェックです。
三日月堀(西側)
三の丸の西側に三日月堀が築かれています。
三日月堀の入口の所には案内板が設置されているので、分かり易いです。
三日月堀は深さが2~3m、幅は10m、長さは30m程はあるかと思われ迫力があります。
三日月堀が良好に残されているのは珍しく、武田流の築城技術を体感する事ができます。
三の丸の三日月堀は深沢城一番の見どころです。
弧を描く三日月堀は見ていて面白く、諏訪原城や小山城を連想してしまいます。
三日月堀により深沢城の西側の防備を強化していたようです。
三日月堀(南側)
三の丸の南側(石碑や説明板の後ろ)にも三日月堀が築かれています。
こちらの三日月堀も西側と同じ位の規模となっていますが、木があるので少し見辛いです。
三日月堀が立て続けに築かれている様子は驚きます。
馬出し
三の丸の東側には馬出しが築かれています。
現在馬出し内には詩碑が建てられています。
馬出しは外周部が丸くなっているので丸馬出しと思われ、馬出しの外側は堀が築かれています。
堀の先は抜川が流れていて天然の堀となっていて、堅固な城となっています。
三の丸内部(八幡宮)
現在三の丸には民家が建てられていて不用意に敷地内に入る事はできません。
また、三の丸には小さな八幡宮があり、深沢城の守り神のようです。
深沢城・二の丸
下馬溜
二の丸の南側には下馬溜と云われる馬出しがあります。
二の丸の入口部分に半円形の馬出しが設けられていて、この馬出しを突破しないと二の丸に入ることができません。
二鶴様式の堀跡
二の丸の南側には空堀があり、二鶴様式の堀跡と云われています。
二鶴様式は初めて聞く用語で意味は分かりませんが、空堀は二の丸と三の丸を隔てる大きなものとなっています。
二の丸内部
二の丸は本丸と三の丸の間にある曲輪で、現在は畑が広がっています。
二の丸ももちろん東西を馬伏川と抜川に挟まれていて、端は切り立った崖となっています。
食糧庫跡
二の丸の西側に食糧庫跡があります。
現在は標識が立っているのみとなっていますが、二の丸が重要な郭であったということが伺えます。
深沢城・本丸
土橋と堀切
二の丸の北側に本丸があり、土橋で接続されています。
土橋の両側は堀切(空堀)で仕切り、細い土橋を通らないと本丸に入ることができません。
土橋は多少改変されてしまっている可能性がありますが、本丸虎口の形状が残されていて見どころです。
土橋横の堀切は深さが3~4m、幅は7~8m程あるかと思われます。
反対側も同様の規模となっていて本丸に侵入してくる敵を防いでいます。
本丸内部
本丸は馬伏川と抜川の合流地点に築かれていて、北、西、東は天然の堀、南側には二の丸、三の丸が築かれ正に深沢城の最深部となっています。
現在は畑となっていて、建物等はありません。
袖郭
本丸には袖郭と云う標識が立てられています。
袖郭はどのようなものか分かりませんが、帯曲輪のようなものでしょうか?
袖郭の西側を見ると馬伏川が蛇行し本丸を取り囲んでいる様子が一望できます。
本丸の眼下を流れる川は天然の要害となっていて、非常に堅固な城である事が分かります。
武田信玄も力攻めではなく、金山衆や矢文による降伏勧告で落とした云うのが納得です。
城櫓
本丸の西側には城櫓と云われる櫓跡があります。
標識が立っている場所は本丸の中でも西に張り出した場所で、眺望もよく物見と防御の両方の機能があったかも知れません。
それにしても深沢城は独特な城郭用語がたくさんあります。
大雲院
本堂
大雲院は深沢城から南に1㎞程の所にあります。
大雲院には深沢城から移築されたと云われる大手門が現存しています。
広めの駐車場もあるので時間に余裕があれば寄って行くと良いでしょう。
深沢城・大手門(移築門)
大雲院の入口にさっそく深沢城の移築門があります。
深沢城の大手門と伝わり、大正12年の関東大震災の時に倒壊してしまいますが、昭和25年に復元再建されました。
深沢城の貴重な現存建築物で必見です。
移築された大手門の屋根は切妻造りで、四本の柱がありますが外側に四本の柱が立てられていて補強されているような感じがします。
ちなみに駿東郡小山町の十輪寺には深沢城の搦手門が移築されているので、時間に余裕があればこちらも見学すると良いでしょう。
まとめ
深沢城は三の丸の三日月堀、本丸の土橋と堀切、大雲寺に移築された大手門が見どころです。
自然の地形を巧みに利用して地形に、武田氏の築城技術である三日月堀や馬出しが組み合わされた城郭は見ごたえがあります。
コメント