山梨県甲府市にある要害山城。
1519年、武田信虎は躑躅ヶ崎に館を築き、1520年に敵が攻めて来た際に逃げ込む要害山城を築城しました。
1521年に駿河勢が攻め込んで来ると、信虎の正室である大井夫人は懐妊中であり要害山城に逃げ込むと、後の武田信玄を出産しました。
武田氏滅亡後は、徳川氏の支配を経て、豊臣系大名の加藤光泰が石垣を築き、改修を行いました。
1600年の関ヶ原の戦い以降は再び徳川氏が支配する所となり、廃城となります。
現在でも、標高770mの要害山に城跡があり、主郭跡、土塁、数々の門跡、堀切などの遺構が残され見どころとなっています。
要害山城・基本情報、アクセス
要害山城・駐車場
要害山城に専用駐車場はありません。
登山口近くには道路脇に駐車スペースがあるので、こちらを利用すれば良いかと思います。
トイレはないので注意が必要です。
要害山城・縄張り図
要害山城は標高770mの要害山に築かれた山城です。
中腹の尾根に主郭があり、南側の麓からはいくつのも門と曲輪を築き要害としています。
主郭背後の北側も同様に門や曲輪を設けており、竪堀が多用されています。
要害山城の北東の尾根には熊城という支城が築かれ、より一層堅固な城郭となっています。
要害山城・登城口
案内板
駐車場から小さな橋を渡ると要害山城の登城口があります。
登城口には要害山城の説明板と案内板が設置されています。
登城口から主郭までは45~60分程掛かります。
登山道
登城道は比較的に整備され、一本道なので迷う事はありません。
ただ、主郭までひたすら登り坂なので、体力を消耗します。
主郭までの道には多数の門跡が残されています。
門の入口には一部石垣が残されている箇所があり、門の奥には曲輪が築かれ、右や左に折れるようになっています。
桝形虎口とする事で横矢が掛けられるように工夫されています。
要害山城・不動曲輪
曲輪内部
しばらく登城道を登って行くと、中間地点に不動曲輪があります。
不動曲輪には武田不動尊があり、江戸時代後期に建てられたようです。
門跡
不動曲輪の先には要害山城で最も大きな門跡があります。
門の左側にはこれまであった門跡よりも大きな石で築かれた石垣(石積み)が残り、雰囲気が変わります。
門の先には桝形の空間があり右に折れるようになっています。
周囲の土塁も高く、当時は門が建てられていたと思われ、非常に厳重な門であった事が伺えます。
この不動曲輪の先にある門跡は大規模で、迫力があり見どころです。
先ほどの大規模な門跡の先にもまだ、門跡がいくつもあります。
これらの門は通路が狭められ、道は曲げられていて横矢が掛けられるようになっています。
普通に登っているだけでもまだ門があるのか、いくつあるんだと思ってしまいます。
要害山城・主郭
門跡
主郭の南側虎口にも門跡があります。
門の両側には石垣が良好に残されていて、主郭だけあって丁寧に築かれている様子が分かります。
石碑
主郭の内部には武田信玄公誕生の石碑が立てられています。
駿河勢に攻め込まれた際に後の武田信玄がここで生まれた事により、武田軍の士気があがり、駿河軍を打ち破ったという言い伝えがあります。
実際には要害山城ではなく、麓の積翠寺で生まれたとの説もあります。
土塁
主郭の周囲には土塁が築かれています。
土塁は東側や北側に良好に残されており、高い所で2~3m程はあるかと思います。
主郭の土塁は良く残されていて、見どころです。
堀切
主郭の北側にも門跡があり、先には堀切が築かれています。
堀切には石垣が築かれていて、堀切の横は土橋となっていて人ひとりが通れる道幅となっています。
山城で石垣造りの石垣は珍しく、主郭背後の堀切は見どころです。
竪堀
北側の尾根の先にも門跡や竪堀が築かれています。
主郭背後の北側の尾根は道幅が狭く、竪堀を築く事によってより堅固なものとしています。
主郭北側の尾根の道は狭く、足場が悪い場所もある為、滑落しないように注意が必要です。
まとめ
要害山城は主郭まで道に築かれたいくつもの門跡や主郭の土塁、背後の石垣が残る堀切などが見どころです。
麓の積翠寺では武田信玄が後奈良天皇の勅使を招いて、和漢連歌会を催したと伝わっています。
また、武田信玄公の産湯の井戸があり、武田信玄公ゆかりの場所となっています。
要害山城ウェブサイト:https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/006.html
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