滋賀県蒲生郡日野町にある音羽城。
応仁の乱(1467~1477)頃に蒲生貞秀により、日野川を眼下におく丘陵地に築城されました。
蒲生貞秀は蒲生中興の祖とされ、戦国時代に活躍した氏郷の高祖父であり、音羽城は中野城と共に蒲生氏の居城とされています。
1496年や1503年の合戦では地の利を生かして敵軍を撃破し、難攻不落の城と云われました。
1522年に蒲生秀紀と高郷による内紛が起こり、高郷は秀紀が籠る音羽城を2万とも云われる大軍で包囲しました。
秀紀は8ヶ月間籠城しますが多数の病死者を出した為降伏し、音羽城は廃城され秀紀は鎌掛城へ移りました。
現在城跡は明治時代以降に改変された部分もありますが、本丸、二の丸等の曲輪跡があり、出曲輪と士屋敷の堀切、南側出曲輪の堀切と土橋などが良好に残され見どころとなっています。
音羽城・基本情報、アクセス
所在地:〒529‐1626 滋賀県蒲生郡日野町音羽
城 主:蒲生氏
形 式:平山城
文化財史跡:なし
日本100名城スタンプ:該当なし
音羽城・駐車場
音羽城の北西に伝大手口駐車場があります。
30台以上は停められる大きな無料駐車場です。トイレは音羽城(公園内)にあります。
駐車場には音羽城の説明板が設置されています。
音羽城・御城印
音羽城 御城印 1枚300円
音羽城の御城印が販売されています。
日野まちかど感応館で1枚300円で購入する事ができます。
【日野まちかど感応館】
所在地:〒529‐1604 滋賀県蒲生郡日野町村井1284
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
入館料:無料
音羽城・縄張り図
音羽城は背後に宝殿ヶ岳を控え、前面は崖地となっている比高50mの丘陵地に築かれています。
本丸、二の丸、南の丸は丘陵地の頂部にあり、広大な平地となっています。
北西の尾根筋には士屋敷、出曲輪を配し大手口として、南側の尾根筋にも出曲輪があり、複数の堀切、空堀を築き、敵の侵入を防いでいます。
音羽城・登城口
伝大手口駐車場のすぐ近くに登城口があります。
10分程登って行くと音羽城の出曲輪に着きます。道は整備されているので歩き易いです。
音羽城・出曲輪(北側)
出曲輪内部
音羽城の最も北側に出曲輪があります。
大手口に面していて最前線の砦となる曲輪となっています。
音羽城には城内の様々な箇所に、音羽城に関する説明板が設置されています。
手作り感のある説明板で、各曲輪でこの説明板を探す楽しさがあります。
土塁
出曲輪の南側に土塁が築かれています。
土塁は高さが1~2m程あり、出曲輪の南側を防御しています。
城内の水源地
出曲輪と士屋敷の間に音羽城内の水源地があります。
1522年の籠城戦ではこの水源によって、8ヵ月にも及び耐え忍ぶことができたと思われます。
現在でも水が湧いているようです。
堀切
出曲輪と士屋敷の間には堀切が築かれています。
堀切の深さは出曲輪側の高い所で6~7m、長さが30m以上はあるかと思われます。
出曲輪と士屋敷の間の巨大な堀切は音羽城の見どころです。
深さもさることながら堀幅も10m以上はあるかと思われ、堀底からみると圧巻の迫力です。
土造りの城の魅力が感じられる堀切となっていて、難攻不落だったことも納得です。
音羽城・士屋敷
士屋敷内部
出曲輪の南側に士屋敷があります。
士屋敷は蒲生氏の家臣が滞在した曲輪と思われます。
すぐ近くに水源がある為、この場所に城兵が集まる曲輪が用意されたと思われます。
空堀
士屋敷の北西側に空堀が築かれています。
空堀は深さが2~3m、幅は10mはあるかと思われ、良好に残されています。
音羽城・本丸
竪堀
本丸の北側に竪堀が築かれています。
竪堀は出曲輪や士屋敷等の北西から迫る敵を防ぐために築かれています。
本丸内部
丘陵地の頂上に本丸があります。
音羽城の本丸、二の丸、南の丸は広大な平地となっていて、当時は塀や土塁などでそれぞれの曲輪が仕切られていたと思われます。
本丸には音羽城の説明板が設置されています。
縄張り図付きの説明板なので分かり易くと良いです。
音羽城・二の丸
二の丸内部
本丸の東側に二の丸があります。
現在二の丸には遊具が設置されていて、公園となっています。
トロッコ道跡
二の丸の東側にトロッコ道跡があります。
一見空堀と思ってしまいますが、明治時代に日渓溜築堤工事の土砂搬出の為に作られたトロッコ道跡との事です。
この場所には帯曲輪があったようです。
音羽城・南の丸
南の丸内部
本丸と二の丸の南側に南の丸がありまる。
南の丸には音羽城の大きな説明板が設置されています。
庭園跡
南の丸には庭園跡があります。
現在はほとんど遺構は残されていませんが、当時はこの場所で庭を眺めて気分を落ち着かせていたのでしょうか。
井戸跡
南の丸の南東に井戸跡があります。
井戸は深さが8.7m、直径は2mある深いもので、籠城戦に欠かせない水源となっています。
1523年の籠城戦の時、8ヶ月後の落城前日に蒲生秀紀の奥方がこの井戸に身を投げて自決したと云われています。
音羽城・出曲輪(南側)
土橋
南の丸の先の尾根に出曲輪があります。
出曲輪と南の丸を接続している土橋と空堀が残されています。
土橋の両側は空堀を築く事で虎口を形成している様子が良好に残されていて、音羽城の見どころとなっています。
空堀
土橋の横の空堀は深さが2~3m、幅が6~7mはあるかと思われます。
南の尾根から迫る敵を防ぐために築かれていて、現在でも遺構が良く残されています。
出曲輪内部
出曲輪は音羽城の南側の防備を担っています。
出曲輪の東側には日渓池、西側には瓢箪池があり、天然の要害となっています。
抜け穴
出曲輪には抜け穴があります。
古くから音羽城には抜け穴伝説があり、一説には南の丸の井戸に繋がっているとも云われています。
三回の籠城戦を経験した音羽城には抜け穴があっても不思議ではありません。
櫓跡
南の丸には櫓跡があります。
櫓跡は土が盛られて台が形成されていて、日渓池に面する場所にあります。
櫓は南方面の見張り台としての役割があったものと思われます。
土塁
出曲輪に東側には土塁が築かれています。
土塁は高さが1~2m、長さは10m以上はあるかと思われます。
土塁は良好に残されていて、中世の土造りの城郭を楽しむ事ができます。
まとめ
音羽城は北側の出曲輪と士屋敷の間に築かれた大きな堀切や南側の出曲輪の土橋と空堀が見どころです。
城内には音羽城に関する説明板が散りばめられていて、散策が楽しくなるように工夫されています。
数々の籠城戦を経験した音羽城には抜け穴伝説や井戸の悲劇なども伝えられていて、戦国時代の過酷さも感じられるお城です。
音羽城ウェブサイト
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