新潟県上越市にある春日山城。
南北朝時代に越後守護の上杉氏が府中館の詰めの城として築いたのが始まりです。
1507年に守護代である長尾為景が上杉定実を擁立し、守護である上杉房能を追放しました。
定実が府中に入ると長尾氏が春日山城主となります。
長尾為景、長尾晴景、上杉謙信、上杉景勝と4代が居城する巨大な山城は、日本五大山城のひとつに数えられています。
上杉景勝が会津に移封されると堀氏が入城しますが政務を執るのに不便である為、1607年に直江津港近くに福島城を築き春日山城は廃城となりました。
標高180mで広大な春日山に築かれた城跡には、本丸、二の丸、三の丸、毘沙門堂、直江屋敷跡、景勝屋敷跡、柿崎屋敷跡などの様々な郭が残され見どころとなっています。
【春日山城 監物堀、東城砦のページ】
春日山城・基本情報、アクセス
所在地:〒943‐0819 新潟県上越市大字中屋敷字春日山
城 主:長尾氏、上杉氏、堀氏
形 式:山城
文化財史跡:国指定史跡
日本100名城スタンプ:春日山城跡ものがたり館(12月~2月は市埋蔵文化財センター)
春日山城・駐車場
春日山城の麓にある春日山神社の駐車場が利用しやすいです。
30台ほど止められる無料の駐車場です。トイレも完備しています。
春日山城・登城口
春日山神社
春日山城の麓には春日山神社があります。
米沢市にある上杉神社より分霊され、上杉謙信公を御祭神とする神社です。
上杉謙信の像
登城口には上杉謙信の像があります。
城下の方向を見つめていて凛々しい姿となっています。
建築物がほとんど残されていない春日山城の写真スポットとなっています。
春日山城・三の丸
郭内部
春日山城の東に三の丸があります。
三の丸は別名三の丸屋敷とも呼ばれ、三郎景虎屋敷跡や米蔵跡があります。
また、三の丸の入口には甘粕近江守宅跡もあります。
上杉三郎宅跡
三の丸隅には上杉景虎宅跡があります。
上杉景虎は北条氏康の七男で、同盟を結ぶ際に上杉謙信の養子となった武将です。
上杉謙信に見込まれ期待されていましたが、謙信が亡くなると上杉景勝と跡目争い(御館の乱)となり、鮫ヶ尾城で悲運の死を遂げます。
米蔵跡・土塁
三の丸には米蔵跡と土塁があります。
食料を保存する蔵が建てられていた事から、三の丸は春日山城でも中枢部であった事が分かります。
石碑の背後には土塁があり、春日山城の中で最も良好に残されている土塁となっていて見どころです。
春日山城・二の丸
三の丸の一段上に二の丸があります。
二の丸は本丸の下段にあり帯状となっていて本丸を守っている郭です。
笹井戸と呼ばれる井戸も残されていて、当時は「台所」「御二階」と呼ばれていました。
春日山城・御成街道
春日山城を南北に縦断している御成街道という道があります。
御成街道は関白であった近衛前嗣が通った事から名付けられました。
上杉謙信が後奈良天皇、正親町天皇と拝謁できたのも近衛前嗣と親交を深め、力添えしてくれたことにあります。
春日山城・柿崎屋敷跡
春日山城の南側に柿崎屋敷跡があります。
柿崎景家は上杉謙信に仕えた重臣で、武田信玄との対決である第四次川中島の戦いで先方を務め、武田軍の本陣を壊滅寸前にまで追い詰めた猛将です。
また、北条氏康との越相同盟の締結にも尽力し、子の晴家を小田原に送るなど外交面でも活躍した武将でもあります。
春日山城・上杉景勝屋敷跡
堀切
上杉景勝屋敷と鐘楼郭の間には堀切が築かれています。
堀切は深さが5~6m程あり、傾斜もかなり急なものとなっています。
堀切は春日山城に残る貴重な城郭の防御機構となっています。
郭内部
柿崎景家屋敷跡の一段高い北側に上杉景勝屋敷跡があります。
上杉景勝は御館の乱で上杉景虎に勝利し上杉謙信の跡を継ぎ、後に豊臣五大老のひとり、米沢藩の初代藩主となった人物です。
上杉景勝の躍進は知将直江兼続の力添えがあったからと思われます。
春日山城・鐘楼跡
堀切
鐘楼郭と井戸丸の間に堀切が築かれています。
堀切は深さが5~6mあり、中央部には土橋らしきものが残されています。
土造りのお城を感じる遺構となっていて、お城好きにはたまりません。
郭内部
鐘楼跡はかなり小規模な郭で、文字通り鐘楼があったと思われます。
戦闘時には小さな拠点になるような場所です。
春日山城・井戸丸
郭内部
本丸の一段下に井戸丸があります。
井戸丸には文字通り井戸がある郭で、春日山城の貴重な水源を確保している重要な郭です。
大井戸
大井戸は今現在も水をたたえる井戸で、春日山城周辺に降った雨や雪が地下水となって湧き出ていると考えられています。
春日山城・本丸
郭内部
春日山城の山頂部に本丸があります。
本丸は別名「お天上」とも呼ばれていて、標高180mの春日山山頂に位置しています。
上杉謙信もこの地に立っていたのかと想像すると感慨深いです。
天守閣跡
本丸の堀を挟んだ反対側には、天守閣跡の石碑があります。
実際にこの場所に天守閣が建てられていたかは定かではありません。
景色
本丸からは城下越後府中(直江津)、日本海、周囲の山々を見ることができます。
関川右岸に広がる風景は、1597年の越後国絵図に描かれた風景とほとんど変わっていないようです。
本丸東側は視界を遮るものがないので大変見晴らしが良く、絶景です。
春日山城・護摩堂跡
本丸北側に護摩堂跡があります。
護摩堂は上杉謙信が戦勝や息災を護摩を焚いて祈願した場所です。
奥には諏訪堂跡や毘沙門堂跡もあります。
春日山城・毘沙門堂
護摩堂跡の北側には毘沙門堂があります。
毘沙門天は四天王の北方を守る多聞天で、上杉謙信が深く信仰しました。
戦いの際には「毘」の旗を陣頭に置き、ある時は毘沙門堂を前に諸将に誓いを立てさせました。
毘沙門堂には現在でも毘沙門天の尊像が安置されています。
尊像は上杉景勝と共に会津、米沢と移され、1849年の火災で被害を受けました。
1928年に東京美術学校で修理された際にご分身が作られ、この毘沙門堂に安置されました。
春日山城・直江屋敷跡
直江山城守宅跡
毘沙門堂の一段下には直江山城守宅跡があります。
直江家の屋敷があった場所で、上下三段の郭が造られています。
郭内部
直江家は上杉謙信の父である為景の代から仕える重臣で、中でも直江兼続が有名です。
直江兼続は上杉景勝に仕え、米沢藩の家老になった人物です。
豊臣秀吉亡き後、会津の上杉景勝に対して徳川家康が上洛の催促を促した際の返書「直江状」と呼ばれる挑戦状を送りつけました。
直江兼続は上杉家の謀反がない事、正当性を書き認め家康の行いを皮肉し、戦いをも辞さない覚悟を伝えました。
直江兼続は大きな力を前にしても義を貫き、上杉家の面目を守りました。
春日山城・千貫門跡
門跡
直江屋敷跡の北側には千貫門跡があります。
千貫門は古絵図に必ず書かれている門跡で、古くからこの門があったと考えられています。
門が建っていたと思われる部分のみ土塁が欠けています。
空堀
千貫門跡の奥には空堀が築かれています。
空堀はくの字の折れ曲がっていて、門から侵入した敵を沢に落とすように工夫されています。
空堀は現在でも良好に残されていて、見どころのひとつとなっています。
まとめ
春日山城は本丸を初め、上杉景勝館跡や直江家屋敷跡、柿崎景家屋敷跡、毘沙門堂など上杉家ゆかりの郭跡が見どころです。
上杉家を支えた重臣達や上杉謙信が信仰した毘沙門天など歴史好きにはたまらない城郭です。
城郭の遺構としては三の丸の土塁、上杉景勝屋敷跡から井戸丸の間の堀切、千貫門奥の空堀が良好に残されていて、見どころです。
春日山城ウェブサイト
https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/cultural-property/cultural-property-jpn002.html
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