茨城県茨城郡茨城町にある小幡城(おばたじょう)。
室町時代に大掾詮幹(だいじょうのりもと)の三男である義幹(よしもと)が築いたと云う説と、鎌倉時代に小田知重の三男である光重が築いたと云う説があります。
戦国時代の文明年間(1469~1487年)頃からは水戸城の江戸氏の影響下に入ります。
安土桃山時代の1585年の書状によると大塚弥三郎と小幡孫二郎が小幡城将として入り、涸沼周囲の土豪が交代で動員されていました。
1590年に豊臣秀吉の支援を得た太田城の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏が城を奪われ大掾氏は滅亡し、小幡城も落城しました。
その後、小幡城は佐竹氏の支配下となり家臣の和田昭為が管理し、1602年に佐竹氏が秋田に移封されると廃城となりました。
現在でも各曲輪があり、曲輪間の大規模な空堀や本丸の土塁、四の郭、五の郭の間の土橋などが残され見どころとなっています。
小幡城・基本情報、アクセス
所在地:〒311-3157 茨城県茨城郡茨城町小幡
城 主:大掾氏、佐竹氏
形 式:平城
文化財史跡:町指定史跡
日本100名城スタンプ:該当なし
小幡城・駐車場
小幡城の北側に「小幡城跡駐車場」があります。
10台程は停められる無料駐車場です。トイレはないので注意が必要です。
小幡城・縄張り図
小幡城は三方を湿地帯に囲まれた舌状台地に築かれています。
土門と呼ばれる大手門が西側にあり、本丸の周囲を二~七の郭が配置されています。
それぞれの郭は深く屈曲した空堀で隔てられていて、独立した郭でもありながらも、隣り合う郭が連携、補完しあう独特な縄張りとなっています。
小幡城・登城口
駐車場の近くに登城口があり、小幡城の説明板が設置されています。
登城口から本丸までは歩いて10~15分程で行くことが出来ます。
小幡城・二の郭
空堀
小幡城は各郭間の空堀が通路となっている珍しい城郭で、堀底道を歩いていると両側の郭に常に挟まれている状態となっています。
小幡城の東側に二の郭があり、重臣の居住地であったと考えられています。
小幡城・三の郭
空堀
二の郭の南側に三の郭があります。
三の郭は小さな郭ですが、三の郭と本丸の間にも深く屈曲した空堀が築かれていて、迫力があります。
小幡城の各郭間の折れ曲がる深い空堀は横矢も意識されていて技巧的でもあり、壮観で見どころです。
小幡城・本丸
本丸内部
小幡城の中心に本丸があります。
本丸の入口には説明板が設置されていますが、本来の入口(虎口)はもっと東側にあり跳ね橋などで繋がっていたと考えられています。
土塁
本丸の外周には土塁が築かれています。
土塁は高さが5~7m程あり、現在でも本丸のほぼ全周に渡り残されています。
本丸を取り囲む高い土塁は良好に残されていて見どころです。
井戸跡
本丸の内部には井戸跡があります。
小幡城には二つの井戸が確認されていて、この本丸と七の郭付近にあります。
本丸の井戸には小幡城が落城する際に、姫が金の鳥を抱えて身投げしたと云う、言い伝えが残されています。
小幡城・四の郭
土橋
本丸の南側に四の郭があります。
四の郭は小さな郭で、西側には五の郭と繋がっている土橋が残されています。
現在の土橋は人が一人通れる程の幅となっていて、この土橋の他にも五の郭と七の郭の間にも残されています。
小幡城・五の郭
空堀
本丸の西側に五の郭があります。
五の郭の外周部にも当然空堀が築かれていて、壮観です。
同じような景色の深い堀底道を歩いていると、自分がどこにいるのか分り辛く迷路にいるみたいになってきます。
櫓台跡
五の郭の北東側には櫓台跡があります。
櫓台は小幡城の大手口がある西側の状況が把握できるように設置されています。
また、櫓台の先には両側の堀底道の敵に攻撃できるように工夫された、変形武者走りが設けられています。
まとめ
【小幡城の見どころ】
・各郭間に築かれている深く複雑に入り組んだ空堀(堀底道)
・本丸の外周を取り囲む高い土塁
ウェブサイト:小幡城跡|茨城町観光協会
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