神奈川県鎌倉市にある玉縄城。
1512年に伊勢宗瑞(北条早雲)が築城しました。
玉縄城には一門が城主となり玉縄衆と云われ、鎌倉を守る役割もありました。
特に有名なのが黄八幡の北条綱成で三代城主を務めていて、川越夜戦や国府台合戦、三増峠の戦い、深沢城の戦いなど各地で戦いました。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの時に、六代城主の氏勝が徳川家康により説得され開城しました。
1615年の一国一城令を受けて、1619年に廃城となります。
江戸時代に松平正綱が22000石で玉縄藩を立藩し玉縄陣屋を建てますが、1703年に大多喜藩へ転封となると廃藩となります。
現在では本丸跡に清泉女学院高等学校が建てられていますが、大手門跡や太鼓櫓跡、七曲り跡などが残され見どころとなっています。
玉縄城・基本情報、アクセス
所在地:〒247‐0073 神奈川県鎌倉市城廻200
城 主:北条氏
形 式:平山城
文化財史跡:ー
日本100名城スタンプ:該当なし
玉縄城・駐車場
玉縄歴史館の裏に駐車場があります。
8台程停められる無料駐車場です。トイレも歴史館横にあります。
玉縄城・縄張り図
玉縄城は標高50~70m程の台地に築かれた平山城です。
鎌倉の北西に位置し、外堀が柏尾川と接していて船で相模湾まで行くことができ、鎌倉の防衛の役割がありました。
台地の頂部に五角形の土塁で囲まれた本丸があり、南側に太鼓櫓、煙硝蔵、城主の館、東側に七曲りと入り組んだ自然地形を利用した要害となっています。
龍寶寺
山門
玉縄城の東側に龍寶寺があります。
玉縄城三代城主の北条綱成が城の北東に香花院というお寺を建てた事に始り、六代城主の氏勝が父を弔う為に現在の地に移しました。
龍寶寺は曹洞宗永平寺派のお寺で、玉縄城主の菩提寺です。入口には茅葺き屋根の山門があり、趣があります。
本堂
山門をくぐり参道を歩いて行くと本堂があります。
本堂は1951年に焼失しますが、1959年に再建されました。
本堂の左手には龍寶寺住職四世良順大和尚が立てた玉縄北条氏供養塔があり、玉縄城北条氏の菩提寺であることが伺えます。
玉縄歴史館
龍寶寺の境内には玉縄歴史館があります。
歴史館では玉縄城のジオラマや甲冑、玉縄城で出土したかわらけや、つぶて石などが展示されています。
2階では江戸時代から昭和初期頃に玉縄で使用された、生活用具が多数展示されています。
【玉縄歴史館】
旧石井家住宅
玉縄歴史館の横には旧石井家住宅があります。
旧石井家住宅は閑谷にあった江戸時代中期の民家で、国の重要文化財に指定されています。
内部に入ると大きな土間があり、広間には囲炉裏が設けられていて、江戸時代の暮らしぶりを見る事が出来ます。
玉縄城・本丸
七曲り
玉縄城の南東側には七曲りがあります。
七曲りは高低差が40m程あるつづら折れの坂道で、右手の急斜面に矢を射るための矢射場が設けられています。
七曲りは数少ない玉縄城の遺構で、敵を寄せ付けない工夫が感じられて見どころです。
太鼓櫓跡
七曲りを登り切った所に太鼓櫓跡があります。
太鼓櫓は七曲りを登って来る敵を迎え撃つ拠点で、玉縄城の説明板が設置されています。
太鼓櫓跡は小高い丘になっていて、七曲りを眼下に見る事が出来る場所に位置しています。
南端の一番高くなっている場所が櫓があったとされる場所で、西側の一段下がった場所の平場には煙硝蔵があったとされています。
太鼓櫓跡は玉縄城防衛の重要な場所で、見どころです。
大手門跡
清泉女学院がある場所が玉縄城の本丸があった場所です。
本丸は標高50~70m程の場所にあり、土塁が五角形に巡らされ、東側には出丸である蹴鞠場や矢射場が設けられていました。
本丸の南側が大手門、北側は裏門となっていました。
まとめ
【玉縄城の見どころ】
・本丸南東側に残され整備されている七曲り
・七曲りを登り切った場所にあり、重要な防衛拠点である太鼓櫓跡
ウェブサイト:玉縄城を守る、玉縄城址まちづくり会議
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