福岡県と佐賀県の県境にある基肄城(きいじょう)。
7世紀後半に日本は唐と新羅に敗れた百済を救援する為に、朝鮮半島に軍を派遣します。
しかし、663年の白村江の戦いで日本は唐と新羅に敗れます。
唐と新羅の侵攻を恐れた日本は664年に水城を築き、665年に大宰府の北側に大野城、南側に基肄城を築きました。
基肄城は標高404mの基山の山頂部に位置し、周囲3.9㎞にも及ぶ土塁、谷部には石塁を築きました。
城内には40棟以上もの礎石建物が建てられ、米が備蓄されていました。
現在城跡は国の特別史跡に指定され、南側の水門跡に石塁が復元され、建物の礎石跡や東北門跡、つつみ跡などが残され見どころとなっています。
基肄城・基本情報、アクセス
所在地:〒841-0201 佐賀県三養基郡基山町小倉
城 主:日本、大和朝廷
形 式:古代山城
文化財史跡:国の特別史跡
続日本100名城スタンプ:基山町民会館
基肄城・続日本100名城スタンプ
基肄城から南東に2㎞程行った所にある「基山町民会館」に続日本100名城のスタンプが設置されています。
「基山町民会館」には基肄城の模型やパンフレットもあります。
【基山町民会館】
基肄城・駐車場
基肄城の南側に「基肄城水門跡駐車場」があります。
10台程停められる広さの無料駐車場です。駐車場内にトイレも完備しています。
基肄城の登山口は水門跡の横にあり、城跡を1周するには2時間30分程掛かります。
基肄城のやや西側の山頂部付近には「基山山頂駐車場」もあります。
20台程停められる広さの無料駐車場です。トイレも完備しています。
こちらからだと大礎石群やいものがんぎが近くあります。
基肄城・南側
水門跡
基肄城の南側には水門跡があります。
水門跡は基肄城の谷部を塞ぐように石塁が築かれ、城内の谷水を流すためのものです。
石塁は一部が残されていて、2010年から復元整備が実施され高さ8m、長さ26mの規模となっています。
水門跡の石塁は規模が大きく迫力があり、古代の朝鮮式山城の様子を目にすることができ、見どころです。
水門跡には復元整備の際の調査により新た3つの通水溝が確認され、計4ヵ所の排水施設があります。
一番右側の排水口は高さ1.4m、幅1m、長さ9.5mの大きさで、古代山城の貴重な遺構となっています。
基肄城・東側
米倉礎石群
基肄城の東側の尾根には米倉礎石群があります。
この場所では炭化米が確認されている事から、米を蓄える為の倉が建てられていたと考えられています。
大きな礎石が並んでいて大きな建物があった事が想像できます。
鐘撞堂跡
米倉跡の北側には鐘撞堂跡があります。
城内で山寺と書かれた墨書土器が出土していている事から、寺院の鐘楼や時を知らせる鐘が設置されていたと推定されます。
つつみ跡
東峰の頂部にはつつみ跡があります。
つつみ跡は直径18m、深さ1.5m程の窪みがあり、烽火台跡とも云われています。
つつみ跡であれば倉庫の防火用の貯水池として利用され、夏場は泳いでいたとも云われています。
つつみ跡の大きな窪みは大きな遺構で基肄城の見どころのひとつとなっています。
土塁跡
つつみ跡の北側には土塁跡があります。
土塁跡の標識が立っていますが、どれが土塁なのか分かり辛いです。
近くには竪堀のような遺構が見受けられます。
東北門跡
基肄城の北東側に東北門跡があります。
東北門は幅6m、高さ3mの土塁を切り開いて造られた門で、幅は2.7m程あります。
門跡の左右には門の柱を載せる為の基礎石が残されていて、当時は門が建てられていた事がうかがえます。
東北門は土塁の迫力もあり、門の遺構も良好に残されていて見どころです。
まとめ
【基肄城の見どころ】
・南側の谷部に復元整備された水門跡の高さ8m、長さ26mの迫力ある石塁
・東峰の頂部に残る直径18mの大きなつつみ跡
・北東側に残る高さ3m、幅6mの土塁の間に築かれ基礎石が残る東北門跡
ウェブサイト:基肄城跡(きいじょうあと)/基山町
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