長野県下伊那郡松川町にある伊那大島城です。
1554年、下伊那を占領した武田信玄は大島氏から摂取した城砦に日向大和守を城将として置き、上伊那の高遠城と下伊那の飯田城の中間拠点として重要な拠点としました。
1571年に武田信玄は飯田城の秋山信友に命じて大島城の大改修を命じました。
1572年に武田信玄は織田信長を倒すべく西上作戦を行い、三方原の戦いで信長の同盟者である徳川家康を撃破しますが、信玄は病に倒れてしまいます。
1582年、織田氏の甲信侵攻してくると、武田勝頼は大島城に武田信廉(信玄の弟)を送りますが、飯田城の落城を聞き、戦わずして大島城から撤退しました。
現在でも天竜川に面する丘陵地に城跡があり、三の丸虎口には丸馬出と二重三日月堀、三の丸や二の丸、本丸間の堀切などが良好に残され見どころとなっています。
伊那大島城・基本情報、アクセス
所在地:〒399-3303 長野県下伊那郡松川町元大島
城 主:武田氏
形 式:平山城
文化財史跡:町指定史跡
日本100名城スタンプ場所:該当無し
伊那大島城・駐車場
伊那大島城の西側に台城公園駐車場があります。
30台ほど駐められる無料駐車場で、トイレはもちろんパンフレットも完備しています。
伊那大島城・三の丸
二重三日月堀
三の丸の西側虎口の前面には丸馬出があり、馬出の外側には三日月堀があります。
三日月堀はかなり大規模なもので、中央を残していることで二重の三日月堀となっていて、迫力が凄いです。
この二重三日月堀だけでも伊那大島城に来る価値があり、一番の見どころとなっています。
丸馬出
三日月堀の側面には土橋があり、丸馬出への通路となっています。
しかし、現在は民家が建っている為、中に入る事はできません。
外堀
三の丸の西側、南側には大規模な外堀が築かれています。
外堀の深さは4~5m、幅は7~8m程はあるかと思われます。
三日月堀、丸馬出、外堀さらに三の丸内部は枡形虎口が築かれていて、武田信玄がいかに伊那大島城を重要視していたかが伝わって来ます。
土塁
三の丸西側には、現在でも土塁の跡がうっすらと残されています。
三の丸は本丸と同等規模の広さがあり、伊那大島城でも主要な曲輪と言えます。
伊那大島城・二の丸
空堀
三の丸と二の丸の間にも大規模な空堀が築かれています。
こちらの空堀も外堀と同等規模となっていて、非常に迫力があります。
武田信玄が改修する以前は三の丸がなかったので、外堀として機能していました。
馬出と土橋
二の丸の西側前面にも馬出が築かれています。
三の丸の丸馬出よりは小規模ですが、馬出と土橋の跡が残されていて、当時の様子をうかがい知る事ができます。
二の丸前面にも馬出があるとは鉄壁の縄張りとなっています。ちなみに三の丸北側にも馬出が築かれていて、木橋で連結されていたようです。
諏訪原城に引けを取らない武田流のお城となっています。
櫓台
二の丸の北西側には櫓台があります。
伊那大島城の北側や三の丸方面を監視する役割があったとされています。
横堀
二の丸の南側には横堀が築かれています。
横堀は二の丸と本丸の南側まで築かれていて、長大な空堀となっています。
横堀の隣には小さな曲輪があり、馬出の一種と思われる攻撃の拠点が存在しています。
横堀は東側へと落ちて行っています。
伊那大島城・井戸曲輪
本丸と二の丸の空堀の底を北側に進んで行くと井戸曲輪があります。
井戸曲輪には石積みに井戸があり、敵に井戸の位置を知られないように周囲を土塁で囲まれています。
伊那大島城・本丸
空堀
二の丸と本丸の間にも大規模な空堀が築かれています。
元々窪地であった場所を更に掘る事で鉄壁の防御としています。
虎口
空堀の先に虎口が設けられています。
二の丸と本丸は木橋で連結されていて、この虎口には木戸が設置されていたとされています。
土塁
本丸の北側には土塁の跡が残されています。
また、本丸からは焼米が見つかっています。現在は台城公園となっていて、猿ヶ鼻神社があります。
天竜川
本丸の東側には天竜川が流れていて、天然の堀としています。
東側は天竜川と断崖、西側には二の丸、三の丸、空堀、馬出、二重三日月堀で防備を固める非常に堅固な縄張りとなっていて、紛れもない名城と云えます。
まとめ
伊那大島城は二重三日月堀が一番の見どころです。
曲輪跡はもちろん、空堀や馬出なども良好に残されていて、非常に見応えのあり武田流築城技術を堪能する事ができます。
伊那大島城ウェブサイト
https://www.town.matsukawa.lg.jp/kurashi_tetsuzuki/bunka_sports/shiseki_bunkazai/3018.html
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