愛知県新城市にある石橋城(弾正屋敷)。
奥平二代貞久の二男、弾正久勝が築城したと考えられています。
久勝は周辺の地名である「石橋」を名乗り、三代貞昌の家臣となりました。
1537年、久勝の子、弾正繁昌は主君への謀反が発覚し、四代貞勝の命を受けた土佐定雄(さだかつ)に屋敷を攻められました。
弾正繁昌は敗れ郎党40人余が討ち死にし、死骸は人穴に埋められて奥平弾正宮と呼ばれています。
現在でも主郭西側の土塁には祠が建てられています。
後年に徳岩明和尚は繁昌と一族を哀れみ、亀山城主貞勝に願いでて屋敷跡をもらい受け、石橋山慈昌院としました。
現在でも主郭の西側に土塁、東側に虎口跡が残され見どころとなっています。
石橋城・基本情報、アクセス
所在地:〒441-1414 愛知県新城市作手清岳寺屋敷
城 主:弾正久勝、繁昌
形 式:平城、屋敷
文化財史跡:なし
日本100名城スタンプ:該当なし
石橋城・駐車場
石橋城(慈昌院)の東側に慈昌院の駐車場があります。
10台ほど止められる大きさの無料駐車場です。
道路を挟んだ反対側には「道の駅 つくで手作り村」もあります。
石橋城・主郭
慈昌院 山門
石橋城のある慈昌院の入口には山門があります。
山門の両側には石垣と塀が築かれていて、城郭の虎口のような雰囲気となっています。
慈昌院の山門は、切妻屋根が載せられた薬医門形式と思われます。
屋根は瓦葺きとなっていて、両側には塀が付属しています。
堀跡
山門の手前側には堀の跡のような遺構があります。
石橋城の主郭がある場所は一段高くなっていて、おそらく当時は空堀が築かれていたと思われます。
慈昌院 本堂
山門をくぐると右手に本堂があります。
石橋城(弾正屋敷)の弾正繁昌は主君への謀反が発覚し、屋敷を攻められ郎党40名余が討ち死にしました。
徳岩明和尚は繁昌と一族郎党を悼み「石橋山慈昌院」を建立しました。
慈昌院 鐘楼
本堂の隣には鐘楼があります。
鐘楼の手前にある説明板に書かれている祈願文を合唱にて唱えて鐘を打ち、本堂にお参りすると苦しみが無くなり悟りの境地に近づけるようです。
土塁
石橋城の西側に石橋城の説明板の土塁があります。
説明板には縄張り図が付いているので、石橋城がどのようなお城だったのか分かりやすいです。
石橋城単郭式の城郭(屋敷)で城域は40m×40mの広さで、周囲に土塁と堀を巡らした簡単な縄張りとなっています。
石橋城は西側の土塁が一番良好に残されているので、見どころです。
土塁は高さが2m程で石橋城の西側と本堂の裏北側に残されています。
土塁には祠が設けられている場所があり、討ち取られた繁昌と一族郎党を祀るものと思われます。
戦国時代の悲劇、厳しさを現代に伝えています。
まとめ
石橋城は西側の土塁が見どころです。
土塁にある石祠が立ち並んでいる様子を見ると、戦国時代の非情さ、厳しさを改めて実感します。
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