お城の紹介をします。
静岡県浜松市の曳馬城です。
曳馬城は浜松城の北西の小高い丘に築かれた平山城です。
戦国時代に築かれ、尾張方の巨海氏や大河内氏、今川方の飯尾氏が城主となりました。
当時の浜松は曳馬と呼ばれていて、浜松城も築かれておらず、この曳馬城が重要な拠点となっていました。
1573年の三方原の戦いで武田信玄が迫ってきた際に、徳川家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」と云い武田軍と戦いました。
しかし、百戦錬磨の武田信玄には敵わず、徳川家康は曳馬城の北口にあたる玄黙口に撤退しました。
その後、豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が浜松城主となり、お城の改修が進むと曳馬城は古城と云われ、米蔵として利用されるようになりました。
現在では、本丸跡に元城町東照宮が建立されていて、曲輪跡や玄黙口など当時の面影を見る事ができます。
曳馬城・基本情報、アクセス
所在地:〒430-0946 静岡県浜松市中区元城町111-2
城 主:巨海氏、大河内氏、飯尾氏
形 式:平山城
文化財史跡:なし
日本100名城スタンプ:該当無し
曳馬城・駐車場
曳馬城に専用駐車場はないので、近くの浜松城公園の駐車場を利用すると良いでしょう。
100台程駐められる無料駐車場です。
しかし、浜松城公園を利用する人の為の駐車場なので、浜松城とセットで曳馬城を見学すると良いと思います。
曳馬城・縄張り
曳馬城は浜松城の北東の小高い丘に築かれたお城です。
案内板に記載されているものが曳馬城当時の縄張りかどうか分りませんが、4つの曲輪が隣接し、北側に玄黙口が配置されています。
曳馬城・玄黙口
曳馬城の北東に玄黙口跡があります。
曲輪の間(写真左手)が切り通しになっていて、城門が建てられていました。
1573年の三方原の戦いで武田信玄に負けた徳川家康は、この玄黙口の城門に逃げ帰ってきました。
浜松城時代にも、重要な城門として利用されていたことが分ります。
説明板がある場所から少し東に行った所に、玄黙口跡の標識があります。
特に説明板がないので分りませんが、この場所が玄黙口があった場所でしょうか。
曳馬城・本丸
元城町東照宮
玄黙口の南東には曳馬城の本丸跡があります。
現在は本城町東照宮が建立されています。
鳥居の横に曳馬城の説明板が設置されているので、要チェックです。
鳥居の先には元城町東照宮の社殿があります。
ピンクや黄色、緑色とカラフルな色使いとなっている変わった社殿です。
徳川家康公と豊臣秀吉公の像
本丸跡には徳川家康公と豊臣秀吉公の像が設置されています。
左側の徳川家康公の像は、1573年の三方原の戦いの時(31歳)をイメージした像となっていて、一般的にどっぷりとした晩年の家康公とは違って精悍です。
右側の豊臣秀吉公の像は、1551年の少年(16歳)の時に浜松の松下家の元で初めて武家奉公が叶った時をイメージした像となっています。
秀吉と云えば尾張で織田信長に仕えたイメージがありますが、その前に浜松で武家に仕えていたとは驚きです。
祠の台座
東照宮のお社の背後には、祠の台座があります。
昭和20年の浜松大空襲があり、元城町東照宮の社殿が全焼してしまった時に地元の住民が小さな祠を建てました。
そのときの祠の台座になります。
浜松でも戦争の跡があるとは知りませんでした。
本丸からの景色
本丸の西側からは浜松城の天守閣を見る事ができます。
木に隠れてしまっているので望楼部分のみですが、天守閣が見えて嬉しいです。
曳馬城・椿姫観音
曳馬城から北東に400m程行った所には、椿姫観音があります。
椿姫観音は、曳馬城主の飯尾乗竜が謀略により、亡くなった時に徳川家康が遠州に侵攻してきました。
飯尾乗竜の妻 お田鶴の方が200人の城へと共に曳馬城に籠もり徳川勢と戦いましたが、侍女18人と共に討ち死にしてしまいました。
徳川家康はお田鶴の方と侍女18人を手厚く葬り、周りに椿の木を植えた事により、椿姫塚として付近の人々が供養をしました。
お堂は浜松台空襲で焼失してしまった為、1952年に再建されました。
近年に観音様を祭り、椿姫観音として現在でも供養が続けられています。
曳馬城にこのような悲劇があったとは驚きです。
最後に
曳馬城は本丸の元城町東照宮が見どころです。
玄黙口や椿姫観音などの当時の歴史を物語る遺構があるので、散歩しながら見るのも良いかと思います。
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