石川県加賀市にある大聖寺城。
南北朝時代の「太平記」に城名がみられ、鎌倉方残党の名越氏を土豪の狩野氏が迎え撃ったと云われています。
戦国時代には加賀一向一揆の拠点となり、越前朝倉氏との攻防が行われました。
織田信長が一揆勢を掃討し、羽柴秀吉が覇者となると丹羽長秀に与え、与力であった溝口秀勝が城主となります。このころに縄張りや、城下町が整備され原型となります。
1598年に溝口秀勝が越後国新発田城へ移封となると、小早川秀秋の家臣である山口玄蕃宗永が入城します。
1600年に関ヶ原の戦いの前哨戦として豊臣方に与した山口玄蕃宗永は大聖寺城に籠城し、徳川方の前田利長と戦いますが、落城します。
前田家の城として修築されますが、1615年の一国一城令により廃城となります。
1639年に大聖寺藩が成立しますが、城は再建されず藩領として一般人の入山を禁止されました。
現在は錦城山公園として整備され、本丸、二の丸、三の丸、鐘が丸、東丸などの郭跡が残り、本丸の大土塁や櫓台、本丸と二の丸の間の堀切、鐘が丸の櫓台などが残され見どころとなっています。
大聖寺城・基本情報、アクセス
所在地:〒922‐0861 石川県加賀市大聖寺地方町
城 主:狩野氏、一向一揆勢、朝倉氏、溝口秀勝、山口宗永、前田氏など
形 式:平山城
文化財史跡:市指定史跡
日本100名城スタンプ:該当なし
大聖寺城・駐車場
大聖寺城の東側に「錦城山公園駐車場」があります。
10台程停められる広さの無料駐車場です。トイレは公園内にあります。
また、大聖寺城の北東側にも駐車場があります。
大聖寺城・御城印
大聖寺城 御城印 1枚300円
大聖寺城の御城印が販売されています。
小松市にある那谷寺の門前にある「花山亭」で、1枚300円で購入する事ができます。
大聖寺城・登城口
登城道
駐車場の横に登城口があります。
登城道は整備されていますが、場所によっては草が生えている場所があり、小さな虫もいるので夏場の見学は避けた方が良いかも知れません。
登城口から本丸までは10分程で行くことができます。
贋金造りの洞窟
登城口付近には贋金造りの洞窟があります。
明治元年に新政府から越後戦争の弾薬供出を命じられた大聖寺藩は、この洞窟で贋金を造りました。
銀製品を溶かし通貨として新政府の命令を果たしますがその後露見し、製造責任者の市橋波江は切腹を明治られました。
しかし、息子には倍の禄を与えて功に報いました。
大聖寺城・馬出曲輪
曲輪内部
本丸の東側に馬出曲輪があります。
馬出曲輪は一段下がった位置に桝形虎口が設けられていて、曲輪内は左に折れて本丸へ行くことができます。
曲輪の一部には石垣が築かれていた箇所があり、重要な曲輪であった事が分かります。
坂土橋
馬出曲輪の先には坂土橋があります。
土橋は土で造られた橋(通路)で、坂土橋は傾斜のある坂道となっている土橋です。
大聖寺城・本丸
南虎口跡
本丸の南側には虎口跡があります。
本丸南虎口は本丸の正門で、発掘調査により城門と石垣造りの土塁が築かれていた事が判明しています。
また、虎口跡には城主の権威や威厳を示すための鏡石が残されています。
大土塁
本丸の南西側には大土塁が築かれています。
大土塁は高さが2~3m、全長30m程はあり長大な土塁となっています。
大土塁は大聖寺城で最も規模が大きく、良好に残されている土塁なので見どころです。
櫓台跡
大聖寺城は標高67mの錦城山に築かれていて、本丸は最高所に位置しています。
本丸北端には天守に相当したと考えられる櫓台が築かれていて、周囲には破却された石垣の石材が残されています。
天守に相当する櫓が建っていたと推定される本丸櫓台は想像力を掻き立てる遺構であり、見どころです。
北東虎口跡
本丸の北東側に虎口跡があります。
北東側の虎口は本丸の裏門であり、桝形虎口を上下二段に築く事で厳重な虎口となっています。
上段の桝形にはL字の土塁が築かれ、太い柱を使用した建物があった事が柱穴跡から推定されています。
大聖寺城・馬洗い池
本丸、二の丸、西の丸に囲まれた谷部には馬洗い池があります。
馬洗い池は北東部を堰き止めて、底部を掘削した人口池で大聖寺城の水源を確保しています。
大聖寺城・二の丸
堀切
本丸と二の丸の間には堀切が築かれています。
堀切は深さが3~4m、幅が6~7m程はあり、本丸の北側を防備しています。
堀切のそばには虎口跡が残されています。
郭内部
本丸の北側に二の丸があります。
二の丸は城内最大の曲輪で台所屋敷とも云われていました。
虎口は本丸側と戸次丸側にあり、本丸側の虎口は北東側の下段と渡り廊下で繋がっていた可能性があるようです。
土塁
二の丸の西側に土塁が残されています。
現在土塁は高さが1m程しかなく、当時はもっと高かったであろうと思われます。
横堀
二の丸の北側には横堀跡があります。
現在の横堀は深さがほとんどなく、公園内の通路として利用されています。
大聖寺城・三の丸(北の丸)
郭内部
二の丸の北側に三の丸があります。
三の丸は大聖寺城の北端に位置する曲輪で、北東方向の尾根には一向一揆時代に造られた削平段の遺構が残されています。
竪堀
三の丸の西側の斜面には竪堀があります。
竪堀は深さが1m程となっていて、斜面を落ちて行っている様子が分かります。
大聖寺城・局谷
本丸と鐘が丸の間には局谷(つぼねたに)があります。
局谷は深く幅広い谷となっていて、本丸の西側を守る強力な防衛線となっています。
大聖寺城・鐘が丸
郭内部
本丸の南側に鐘が丸があります。
大聖寺の鐘撞堂があった事から鐘が丸と云われていますが、曲輪南西部の角が直角に曲がっていて「曲かね」という事から名付けられているとも云われています。
古い文献には鐘が丸砦と書かれていて、出城的な機能を持っていたと考えられ、1600年の前田軍との戦いの際には激戦地となりました。
櫓台(骨が谷)
鐘が丸の西側には櫓台と骨が谷があります。
鐘が丸の西側には高さ3~4m程の長大な土塁が築かれていて、この上に櫓が建てられれいたと思われます。
土塁外側の谷は骨が谷と云われ、前田軍との戦いで多くの将兵の遺体が骨になるまで放置されていたと伝わっています。
鐘が丸の櫓台(土塁)は規模が大きく、戦いの激戦地であった重要な場所という事で見どころです。
大聖寺城・東丸
鐘が丸の東に延びる尾根の先端部に東丸があります。
東丸は大手の谷道に面する重要な曲輪で、南側と東側は急峻な谷となっています。
まとめ
大聖寺城は本丸の迫力ある大土塁、天守に相当する櫓が建っていたと想像できる櫓台、鐘が丸西側に残る櫓台(土塁)、山口玄蕃宗永と前田利長の激戦となった骨が谷が見どころです。
関ヶ原の戦いの前哨戦として激しい戦いが行われていたという事を、知ることが出来るお城となっています。
ウェブサイト:大聖寺城址 ほっと石川旅ねっと
コメント