岐阜県岐阜市にある黒野城。
1594年に加藤貞泰が築城しました。
貞泰の父である加藤光泰ははじめ斎藤龍興に仕えていましたが、斎藤氏が滅亡すると織田、豊臣氏に仕え、甲斐国甲府24万石を与えられました。
光泰は文禄の役に出陣し、1593年に朝鮮で病没します。
光泰の子、貞泰は幼少である事から美濃国厚見郡、方県郡4万石に減封された為、黒野城を築城し居城としました。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍側の織田秀信に付いたが、加勢した諸将に東軍側に付くように説得し、本戦でも島津軍と戦いました。
1610年に加藤貞泰は伯耆国米子6万石に加増され転封となると、黒野城は廃城となりました。
現在黒野城跡は公園として整備され、本丸の水堀、土塁が残され見どころとなっています。
黒野城・基本情報、アクセス
所在地:〒501‐1131 岐阜県岐阜市黒野
城 主:加藤氏
形 式:平城
文化財史跡:市指定史跡
日本100名城スタンプ:該当なし
黒野城・駐車場
黒野城の東側の「平成医療短期大学」の駐車場があり、土、日、祝日限定で利用可能です。
また、黒野城南西側にある「黒野城二の丸資料館」にも駐車場があり、利用可能です。
トイレは本丸の入口付近にあります。
黒野城・二の丸
黒野城二の丸資料館
当時は黒野城の南西側に二の丸がありました。
現在は住宅地となっており遺構はありませんが、私設の資料館があります。
手作り感がありますが、黒野城に関する資料が多数展示されているので、見学してみると良いと思います。
黒野城・本丸
虎口跡
黒野城の西側に本丸の虎口跡があります。
当時は木橋の先が桝形虎口となっており、本丸の虎口に相応しい形式でした。
現在では、公園の遊具が置かれています。
石碑
虎口跡の先には黒野城の石碑と説明板が設置されています。
複数の説明板があるので分かりやすく親切です。
当時の黒野城は本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれ、東西約1000m、南北約800mの規模を誇る城郭でした。
曲輪内部
現在本丸の内部はグラウンドとなっています。
本丸は南北50m×東西50mほどの広さがあり、外周は土塁と水堀で囲まれています。
当時は本丸の南東に南東櫓、北西に北西櫓が建てられていて、強固な城となっていました。
土塁
本丸の土塁は高さが5mほどあり、本丸を囲っています。
土塁のほとんどは叩き土居と呼ばれる、砂利や土に粘土を混ぜて叩いて固める工法で築かれました。
土塁は黒野城で良好に残されている遺構なので、見どころです。
土塁の上が遊歩道になっていて、土塁の上を1周回ることができます。
土塁の上から堀を見下ろすと土塁の高さを実感する事ができます。
土塁の上にも説明板が設置されているので、要チェックです。
南東櫓跡
本丸の南東隅には南東櫓跡があります。
現在南東の土塁は昭和時代に改変されていますが、当時は三間(5.4m)外側に櫓台が張り出していました。
張り出す事で横矢が掛けられるように工夫されています。
櫓台の上には二重の櫓が建てられていたと推定されています。
北西櫓跡
本丸の北西隅には北西櫓跡があります。
北西の土塁も張り出していて、二重又は三重の櫓が建てられていました。
黒野城には天守が建てられなかったので、天守に相当する櫓がこの場所に建てられていたと考えられています。
水堀
本丸の外周部は水堀で囲まれています。
水堀は幅が10m、深さが6mほどあり、土塁と合わせるとかなりの高低差があります。
水堀は土塁と同様に良好に残されているので、見どころです。
住宅街の中にこれだけの土塁と水堀が残されているのは貴重です。
水堀越しに見る土塁は迫力があり、見応えがあります。
まとめ
黒野城は本丸の水堀と土塁が見どころです。
説明板の要所に設置されているので、当時の黒野城を想像しながら散策すると良いでしょう。
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