香川県高松市にある屋島城(やしまのき)。
屋島城がいつどのように築かれたのかはハッキリとな分かっていません。
唐と新羅に滅ぼされた百済を救う為に、日本は軍を朝鮮に派遣しましたが、西暦663年の白村江の戦いで大敗してしまいます。
唐と新羅の侵攻に備えるために対馬や大宰府に朝鮮式山城を築城しました。屋島城はその中のひとつと云われています。
日本書記に667年に「讃吉國屋島城築く」と記載されていますが、香川県高松市にある屋島城なのかは不明です。
1998年に屋島城を探索していた平岡岩夫氏が石積みを発見した事により、発掘調査が行われ2002年に城門の遺構が確認されました。
現在では高さ5~6mの石積みや城門が復元され見どころとなっています。
屋島城・基本情報、アクセス
所在地:〒761‐0111 香川県高松市屋島東町 屋島山上
城 主:大和朝廷
形 式:古代山城(朝鮮式山城)
文化財史跡:国指定史跡
日本100名城スタンプ:該当なし
屋島城・駐車場
屋島城の城門の北側に屋島山上観光駐車場があります。
355台停められる大きな有料駐車場です。トイレはお見上屋やお寺などにあります。
【屋島山上観光駐車場】
屋島城・登城口
屋島城は血の池(瑠璃宝の池)横から行く道と、屋島寺の山門から行く道があります。
どちらも歩いて10分程で城門まで行くことが出来ます。
屋島城・城内
城門
663年に日本は白村江の戦いに敗れると中大兄皇子は国防の為、九州から瀬戸内海にかけて複数の山城を築きました。
屋島城はその中のひとつとされていて「日本書記」に名前が残されています。
福岡県の大野城や基肄城、長崎県の金田城、熊本県の鞠智城が日本100名城に選定されていて有名です。
1998年に屋島城を捜索していた平岡岩夫氏が石積みを発見し、発掘調査により2002年に城門があった事が確認されました。
現在では城門を含めた高さ5~6mの石積みが復元され、屋島城の見どころとなっています。
城門の前面には高さ2.5mの段差(懸門)があり、当時は梯子がかけられていて、敵が来た場合には外して敵が侵入できないようになっていたとされています。
城門部分では柱穴と排水溝の石組の溝が確認され、説明板に当時の様子が描かれています。
城門の前面には水口があり、雨が降るとここから水が排水されるようになっています。
この時代から近世城郭で見られる石樋と同じ機構があるとは驚きです。
石積み
城門の外側には高さ5~6mの石積みが復元されていて圧巻です。
城門の正面から見て右側の石積みは弧を描き、城門付近の敵に対して側面攻撃(横矢掛かり)ができるように工夫されています。
曲線の石積みは沖縄県の城郭のようで、迫力があります。
石積みの中には大きな石が使用されて部分があり、鏡石のようです。
修復される前からこの石があった事が説明板に記載されています。
石積みの石材は安山岩で、茶色い石が元々の石で、黒や灰色の石は復元する為に補ったものとなっています。
源平合戦ゆかりの地
血の池(瑠璃宝の池)
屋島には源平合戦のゆかりの地があります。
瑠璃宝の池は弘法大師が屋島寺を創建する時に、宝珠を納めて池としましたが、竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられています。
源平合戦の時に檀の浦で戦った武士達が池の水で刀を洗った為、池の水が赤く染まったと云われています。
源平屋島合戦史跡 案内図
屋島城に向かう途中の展望台には、源平合戦の史跡の案内図が設置されています。
平安時代末期に一の谷の戦いで源氏に敗れた平氏は、安徳天皇を奉じて屋島の檀の浦に本拠を構え海側の防備を固めていました。
源義経率いる源氏軍は平氏の裏をかき、迅速に阿波の海岸に渡り平氏の背後を突くことにより平氏に勝つことが出来ました。
舟隠し
舟隠しは平氏が舟を500隻待機させていた場所で、源氏軍が海から攻めてきたら挟み撃ちにするという計画でした。
平氏と源氏の合戦の駆け引きが垣間見れる場所で、源義経が戦上手なのが実感できます。
那須与一扇の的
戦いが日暮れと共に終わる頃、海上の平氏が小船を一艘出してきました。
小船には女人が扇を立てて手招きをしており、源義経はこれを射よという事だと判断し、那須与一に射る様に命じました。
両軍が見守る中、那須与一は見事に射抜き、両軍の喝采を浴びました。
まとめ
【屋島城の見どころ】
・復元された高さ5~6mの曲線の石積み
・復元された城門越しに見える瀬戸内海と町並み
ウェブサイト:屋島城 高松市
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